運転を哲学する男 小林眞のコラム 25 過失の程度と結果の重大性

交通事故は日々発生し、そして、死亡事故に至る。交通死亡事故とは、無謀な運転の結果であり、自分とは無縁なことと思っているドライバーも少なくありません。

しかし、発生した交通事故が、軽傷で済むのか、重傷事故になるのか、あるいは死亡事故になってしまうのかは、過失の程度によって決まるものではありません。

死亡事故ですら、その原因のほとんどは、誰でも犯す可能性のある過失に過ぎないのです。

例えば、夜間、道路を歩いている高齢者を跳ねてしまう交通死亡事故の原因、それは他の誰も犯さないような危険な運転、重大な過失だったのではありません。速度を10km/hほどオーバーし、ロービームのまま走行したために、発見できなかったことが原因です。

そしてその道路では、その死亡事故の前にも後にも、同じような運転をするドライバーは何人もいたはずであす。しかし、だからといって、その死亡事故は、運の問題ではありません。ドライバー自身が、ハイビームにするか、速度を落として走行し、前方を注視していれば、その事故を避けることができたからです。

できることをしなかった、それは運の問題ではなく、ドライバーの意思による結果です。ならば、その結果として発生した事故に対して、ドライバーが責任を問われるのは当然であり、悪かったのは「運」なのではなく、悪かったのは「ドライバー自身」です。

 

失われた命が帰らぬように、加害者はその現実から逃れることはできません。私たちのできることとは、事故を防ぐ運転を続けることだけです。それは、現代を生きる者として当然に担うべき役割であり、果たすべき責任なのです。

過失の程度と結果の重大性とは比例しません。

私たちが行うべきこととは、誰もが犯す、ありふれた過失が人の命を奪っているという現実と向き合い、安全運転の価値を認めること、そして、安全運転を続け、それを自分の習慣とすることです。

PAGE TOP